カテゴリ:旅ツマ4イタリア編( 12 )

TabitsumaJunk「番外編・・」の巻

(=∧=)この旅の背景となっているところを少しご紹介しておきたいと思う。

なお、初めてお読みになる訪問者の方々はまずはこちらから。→ こちら


◎旅の期間:1979年12月〜1980年12月

◎旅の目的地:西ヨーロッパのどこか

◎旅の同行者:エカキ&ツマ&ちび

◎旅の目的:西ヨーロッパのどこかに定住しそこでエカキが絵を描くこと

◎チケット:大韓航空の1年間オープンチケット (格安なので子ども料金なし。大人1人分がオフシーズンで198000円。親子3人で約60万円。今思えば当時は航空運賃が高い)

◎為替レート:1FF(フランス・フラン)=60円 
       1pst(スペイン・ペセタ)=3.6円 
       1LIRA(イタリア・リラ)=0.3円

◎持参金:半年分。1ヶ月16万円×6ヶ月分+アルファ=120~130万円位かな?
銀座の東京銀行で、アメリカドルとフランスフランのトラベラーズ・チェックを購入し持参する。当時は日本円そのものを現地通貨に交換することが難しか ったのだ。

◎上の経済状況より、宿泊費が大きな割合になるため、スペインでの手帳に次の
 ような記載を見つけた。宿の条件だそうな・・
      ・ダブルベッド1+シングルベッド1   
      ・水道つき(お湯に水の双方)
      ・ヒーター付
      ・7〜800pst
      ・まず1泊!それから連泊を決定すること。
 **7〜800pstということは2100円〜2400円で宿探しをしていたらしい。
   トイレやシャワー風呂はついていない部屋だった。

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ヒマさえあればお指をちゅぱちゅぱする2歳の息子。両親が持ち歩く荷物が多いため、「抱っこ」と言われても抱っこできず、いつも「あーーん」と泣いていた。しかも2歳児のくせに「疲れた、もう歩けない」というフレーズをすぐに覚え反復していた知能犯。
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by nabetsuma | 2008-10-11 09:40 | 旅ツマ4イタリア編

TabitsumaJunk「14:イタリア:ジェノヴァ」の巻

(=∧=)これは「28年前、ある絵描き一家が行なった無謀な旅のお話」です・・

南仏、コート・ダジュール(紺碧海岸)のサン・ラファエルから、カンヌ&ニースを越えいよいよイタリアへ。

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1980年2月8日、エカキの手帳より。
『真っ暗なうちに起きだして7:05発の列車にのる。徐々に徐々に夜は明けてゆきやがて地中海に美しい日の出が訪れる。アンチーブで停車している数分の間に太陽はその素晴らしい光の金環を表し南仏の朝は今明けた。銀青灰色に輝く海。まぶしく早朝からこぎだす船がはるかに望める。親切なフランス婦人がイタリアの国境の街ヴァンティミグリアでフィレンツェ行きに乗り換えさせてくれた。感謝。』

『イタリアに入ると急に街も列車も小汚くなるが、ジェノヴァ駅のインフォメーションのおじさんは感じがよく、町の人もなんとなく親切そうな感じ。建物や道路はたしかに汚いがその色にイタリア人気質を見る思いがする。美しい黄や赤茶そして緑だ。教えられたホテルは駅から少々遠くくたびれたが、ここのおじさんもやさしそう。』
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エカキツマがジェノヴァで印象に残っているのは・・「ニョッキ」だ! 生まれて初めて食べたジャガイモパスタのニョッキ。しかも上にグリーンのソースがかかっていた・・ウッウッなんじゃろうか?と疑いつつ食べてみたところ、うんまい!! ずうっとあとで分かったこのソースが「ペスト・ジェノヴェーゼ(ジェノヴァ風ソース)」だった。ペスト(Pesto)とは、リグーリア地方起源の独特の調味料の一種。基本とする材料は香草バジリコ。

ところでねえ、ニョッキを食べたレストランは、お宿の主人に教えてもらったジモチー用のトラットリア。家族経営のこじんまりしたお店で名を「Vegia Zena」という。検索したら出てきた。つぶれてないらしいが・・びみょう・・

味は非常に良かったんだけど、お勘定になってからが怪しい・・。精算書を出してきたがあまりに高い。こういうときにはあわてないで、ソーラー式の電卓を出してゆっくり計算するのだ。で、クイクイと兄ちゃんを呼んで、注文の際に紙のテーブルクロスにペンでオーダーとその値段を書いておいたのを計算し、それを見せた。

兄ちゃんはあれ?という顔をし(知ってか知らずか)、家族の元にもどり、みんなであーでもないこーでもないと計算。で、また精算書を出してきた・・ちがう! またクイクイと呼んで、「ノー」と言うと、また家族の元にもどり会議が始まる。さすがに3回やっても小さい桁は合わないのだが、このままではらちがあかず宿に戻れない・・まったく・・

最後はこちらが譲歩したが、計算が本当にできないんか、何か企みがあるんか、このときエカキ一家は「この国では気を引き締めてかからんといかんな」と思ったのであった・・
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by nabetsuma | 2008-10-10 18:21 | 旅ツマ4イタリア編

TabitsumaJunk「15:イタリア:ピサ」の巻

(=∧=)ジェノヴァには結局1泊のみで、フィレンツエを目指したエカキ一家は途中、斜塔で有名なピサに立ち寄った。
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奥手に見えるのがピサの斜塔・・当時はまだそんなに傾いてはいなかったなあ。

エカキの手帳から。
『駅から1番のバスでピサの斜塔前のインフォメーションセンターに出向く。ツマが地図をもらいホテルを探し、私はスケッチなどしながら待つ。見つけた宿はペンシオーネと呼ばれ、12000L(3600円.1LIRA=0.3円)と少々高いが、安いところは満員のもよう。』

『夕食は近くのピッツェリアPIZZERIA CASSIOへ行ったが、安くて美味しかった。息子は愛嬌をふりまいて、最後は店の人皆で見送ってくれた。イタリア人は特に子どもをかわいがるようだ。ジェノヴァでも道ですれ違った老尼僧がわざわざ引き返して来てキャンディーを袋毎くれたりして親はうれしいやら迷惑やら』


翌日のお昼、ピサ大学の学食に潜り込もうとしたエカキ一家だったが、学食入口で少々リサーチ。すると学生たちから、ここはチェックが厳しく利用に当たっては学生証が必要だからやめといたほうがいいとアドバイスされる。ちぇっ

『今日はツマの誕生日。まったく正反対な、そして似ているところはおどろくほど似ている性格でよくやってこれたものだと思う。乾杯。』

(=∧=)こんなこと書いてあった・・ちょっと驚いた・・
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あ、でもそれなりに傾いてるわ・・
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by nabetsuma | 2008-10-10 12:41 | 旅ツマ4イタリア編

TabitsumaJunk「16:フィレンツェ1泊だけ?」の巻

(=∧=)みなさま、エカキ一家は花の都?フィレンツェに入りまする・・知り合いがいることを思い出したペルージャへの往路への拠点ともなりました・・

2.04/エクス・アン・プロバンス
2.07/サン・ラファエル
・・・・・・・・・・・・・・・上はフランス、下はイタリア
2.08/ジェノヴァ
2.09/ピサ
2.11/フィレンツェ
2.12/ペルージャへ
2.23/フィレンツェに戻る
3.03/フィレンツェからファエンツァへ旅立つ
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エカキの手帳から
『フィレンツェに着いたのはちょうど正午頃、駅のセルフレストラン(高いのだが)で腹を満たしツーリズモ(公の観光案内所)の本部へ行く。立派なオフィスでさすがに観光都市だとうなずく。』

ここで案内所の女性スタッフが、我々の事情を理解してくれ、親切にもアパート探しをフィレンツェ周辺にまで拡げてやってみてあげるから来週出直しておいでと言ってくれた。なら、それまでちょいとアレッツオへ行ってみようと駅の荷物預け所に重い荷物を託し、身軽になった我々は列車に飛び乗った。

『列車に乗り合わせた男性や中年女性と話しているうちに、ペルージャへ行ってみようということになりTERONTOLA-CORTONAで乗り換え夕暮れのペルージャにたどり着いた。彼らの話によるとここ5年くらいで物価が急上昇しインフレに陥ったそうだ。ペルージャは駅から丘の上の中央(チェントロ)までバスでかなり登った。途中の洛陽が非常に美しく素晴らしい山並みの陰影と調和し自然の包容力を強く感じる。ホテル探しにあくせくしなければ生きてゆけぬみじめさが胸にこみ上げてきた。』
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『とにかくなんとか HOTEL piccoro という安宿にころがり込み、ピッツアとスパゲティで腹を満たし明日へ希望をつなぐ』
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(=∧=)ペルージャって・・サッカーの中田英寿が海外で初めて所属したクラブチームの拠点。ペルージャに滞在したことがあった故、クラブオーナーの欲深くよからぬ有様はよく理解できた。
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by nabetsuma | 2008-10-09 15:11 | 旅ツマ4イタリア編

TabitsumaJunk「17:ペルージャ、困惑の街」の巻

(=∧=)1980年2月12日、ペルージャへ入る。ここペルージャには計11日間滞在することになった。エカキツマは旅に出る前に、友人やらアテネフランセで知り合った人たちに、彼の地に住んでいる日本人で頼れそうな人々の紹介を受け日本からコンタクトを取っていた。なかには直接コンタクトは取れなかったが、氏名住所電話番号をリストにして持参した人もいた。そのなかで、ひとりペルージャの住人がいたのだった。

翌日のエカキの手帳から
『昼頃宿からペルージャに住むという友だちの友だちに電話をしたが転居したということで、道で出会った留学生風の日本人女性に尋ねたところ、長年住んでいるO氏に聞けばわかるだろうとO氏のアパートまで連れて行ってもらった。そのO氏にいろいろ尋ねているうちに、ペルージャ近郊の一軒家が空いているのを知っているので照会してみようということになった。聞くところによると200人もの日本人留学生が居るというのにびっくり。』
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ペルージャ(Perugia)は人口約15万人のイタリア中部、ウンブリア州の州都。聖フランチェスコで有名なアッシジの最寄りの町。写真はペルージャのチェントロ、中心地だ。ここからちょっと小道に入ったところに小さなトラットリアがあった。

『昼食はO氏に教えてもらったBOTTEというトラットリアで食べたが、安いせいで学生で一杯。席は横取りするわ、食後の食器は片付けてくれないわで、非常に頭にくる。この町はいままで訪れたどの町よりも人情が薄いような気がしてしょうがない。そんな都会でもないのだが、田舎的な温か味もない。ひどい。』

2/14
『宿がえし12000LのペンツィオーネAUGASTAというところに移る。ここは窓からの眺めが良く満足する。町を歩いてスケッチするが風が冷たく長時間描くことができないのが残念。写真で代用する。』
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(=∧=)ペルージャでは・・まだまだいろいろありますよん〜
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by nabetsuma | 2008-10-08 14:53 | 旅ツマ4イタリア編

TabitsumaJunk「18:ペルージャ、困惑の理由」の巻

1980年2月15日
(=∧=)エカキは近くのASSISIアッシジに出かけ留守。その行き帰りでまたもやプチ災難に見舞われたもよう〜

『よくよく頭にくるのは、このあたりのある種のイタリア人の不誠実さである。ペルージャのBARで電話しようと200リラ硬貨を出したところ(100リラで1枚GETTONE/電話用硬貨をくれる)1枚しかジェットーネを出さない。

アッシジ駅でペルージャまで600リラのところ、小銭がなく10000リラ札を出したところ400リラしかおつりをよこさない。ドンドンドンと窓口を叩いて抗議するとニヤッと笑いつつ残りの9000リラをよこした。外国人とみてそうしているのだろうが、この根性が現代のイタリアを明らかにむしばんでいる。

食べ物は美味しく文化的にも今まで旅した中ではダントツなのだが、イタリアが病んでいるのはこの不正直な気質のせいに違いない。もちろん皆が皆そうだというわけではなく仲間内にはとても親切なのだとも聞く。ツマは買物をしていても順番をまったくといっていいほど守らないのにはあきれてものが言えないとこぼしている。』
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やっと知り合いのMさんに連絡がつき、上の写真の迷路のような道を案内されMさんのアパートで夕食をごちそうになった。Mさんを紹介してくれたのはエカキの美大の友人だったが、よくよく話してみるとMさんとエカキツマは同じ時期に新宿の予備校で一緒だったらしい。Mさんは結局美大を受験せずそのままイタリアに来たそうだ。その後音楽の勉強をしているMさんのお姉さんもペルージャに留学し一緒に住んでいるということらしい。

翌日エカキツマはペンシォーネのおばさんからミートソースの作り方を教わり、その間エカキはスケッチに出かけた。
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『Tempio di S.Andelo の前でスケッチしている若者がいたので声をかけると、アカデミアで去年から絵を学び始めたドイツ人だった。スケッチブックを見せたりしているうちに気が合って、ぜひ下宿に来て絵を見て欲しいというので見せてもらった。

彼はミュンヘン出身だが、ミュンヘンのアカデミィは日本と同様入学が非常に難しいそうで、ゆくゆくはそこに入りたいが、まず誰でも入れるイタリアに来ているとのこと。今度はこちらの宿でツマと息子を紹介し、彼の教えてくれたMENSAという市営食堂で一緒に食事をした。3ヶ月後にはミュンヘンに帰るというのでミュンヘンの住所を教えてもらうことにした。こちらに来ていろいろな人々と知り合いになれるのはとても楽しいことだ。』


(=∧=)MENSAは貧民のための救済食堂です。こちら
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by nabetsuma | 2008-10-07 14:28 | 旅ツマ4イタリア編

TabitsumaJunk「19:ペルージャでドタバタ」の巻

1980年2月19日
(=∧=)どうやら「ペルージャ近隣で家を借りて住む」という話が、O氏とのやりとりのなか、現実味を帯びてきた。そんななか、知り合ったドイツ青年がミュンヘンの自宅住所を知らせに宿に来てくれた。気のいい青年で、こちらで家を移るときに車を借りて手伝ってくれるという。

『O氏と3時に待ち合わせをしていたが、出かけ先から時間通りにペルージャに帰り着けなかったようで、こちらは待ちぼうけをくわされ家も見に行くことができなかった。で、結局また別の日に出直すことになった格好で少々うんざりした』

『がっくりして宿に戻ってみると、ここのひとり息子のフィアンセという女性が留守番をしていたので、いろいろわずかの英語と身振りで話した。法律をペルージャ大学で学んでおり、裁判官になりたいとのこと。イタリアでは結婚するのが皆かなり遅いそうである。美しい女性だった。』

エカキツマがあちこち探したところ、宿の中で撮った写真が出てきた・・その美しいイタリア人女性が息子と写っている。息子の顔を白抜きにしようかと思ったけど、めんどーだし息子もここ見てはないだろうと思うんでそのまま掲載・・
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(=∧=)いまや30男のかつての息子・・むすこって・・つまらない・・
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by nabetsuma | 2008-10-05 16:50 | 旅ツマ4イタリア編

TabitsumaJunk「20:ペルージャの憂鬱・・」の巻

1980年2月21日

(=∧=)前回見に行けなかった一軒家に午後からO氏が連れて行ってくれることに。それまで宿で待つ。

『宿のおじさんやおばさんもペルージャの近くcolombellaという村に家を持っていると聞いて、ドイツ人青年のトビー君に貸してくれないか通訳してもらったが、ピクニックなどに使うので貸すつもりはないとのことだった。トビー君の話ではそのあたりは美しいとのこと残念。なんといっても近いのが良いのだが。』

『ペルージャに来て1週間あまり、いろいろ見聞きしてみると、イタリアの悩みというようなものが小さな形でこの町に代表されているということが解ってくる。まず多くの外国人の流入(ペルージャの人口の2/3は他国人だと聞く)と学生の数、出稼ぎのひとたち。貧富の考えもつかないほどの隔たり。すなわち職の不足。これらの要素が、一見穏やかそうに見えるウンブリアの野をおびやかし、前述したような不誠実さを培っているに違いない。』

我々がペルージャに滞在した時期は、ちょうどイランの王政が崩壊したときで、国立のイタリア語学校のあったペルージャにはイランから逃げてきた高官や学者の子弟などで溢れかえっていた。その他にも国立の音楽学校や料理学校などもあり、小さな町ながら日本人の留学生もそれなりにいた。つまりは外国人と学生だらけだった。

加えて、町の歴史でいうと、古くからおとなりのアッシジと闘ったり占領されたり、まあいろいろ鵜用曲折あった地域でもあった。あまりいいことなかったんだろうねえ・・
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by nabetsuma | 2008-10-04 18:00 | 旅ツマ4イタリア編

TabitsumaJunk「21:ペルージャで暮らす夢・・」の巻

1980年2月21日
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(=∧=)いよいよペルージャ近隣のおうちを見に行くことに・・『3時にO氏と車でCarbonesca)ペルージャから約40km北東)までゆく。途中かなり蛇行していて山の眺めはよかったのだが少し気分が悪くなった。見せてもらった家というのは思ったほどではなく、ツマはあまり気に入らなかった様子で、返事はとにかく明日にすることにした。この辺は夏の別荘がいくつか建ちつつあり、そういうのにはもってこいだが、初春の寒さを薪でしのぐというのは覚悟のいることである。車のない我々にとって、この村からペルージャ行きのバスは一日に1本だけだそうだし、完全にこもってしまうつもりにならなければならない。それはツマにとって耐え難いことらしい。私は田舎育ちだからたいして少々不便なくらいは気にならないのだが。』

よーく言うわよね。ぢぶんだって顔色悪かったくせに。まず息子が蛇行のドライブでゲロゲロ寸前に。加えて貸してくれるというお家は農家の納屋を手直したような様子だった。まあ若夫婦用に改造か増築したけど逃げられた・・みたいなかんじ。台所はすっごくレトロで、いわゆるストーブ(オーブン付きの調理台)があった。しかも燃料が薪だぜ・・・まあ、このカルボネスカ村というのはカルボナーラ発祥の地と聞いたりもしたが、関係ないみたいだし、とにかく田舎のなかの田舎。キングオブ田舎。

あとで聞いた話だが、このO氏、すでに中身はイタリアンで、我々以前にも日本人をこの家に紹介し、1ヶ月経ったあたりでその日本人は発狂寸前になったらしい、さもありなん=

そういえば、カルボネスカ村からの帰りのドライブ中にO氏はやたらと「早く決めるほうがいいよ。明日に持ち越すと心証がよくない」と何度も言っていたが、それって「シー(イエス)」と言えってことじゃん! エカキは危うくそう言いそうになったが、睨みつけるツマの形相にのけぞってしまったことを付け加えておく=きっぱり。
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(=∧=)みなさま、写真はすべてペルージャの町ですんで。カルボネスカ村は山のなかの限界集落どすから。2歳の子ども連れで医者のいないところには住めません。

次回は、ペルージャにバイバイしてフィレンツエに戻りまする。そのあと、シエナ、ファエンツア、ベネツィア、ミラノとまだまだイタリアの琺瑯・・ちゃう・・放浪は続きまする・・
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by nabetsuma | 2008-10-03 19:18 | 旅ツマ4イタリア編

TabitsumaJunk「22:フィレンツエ再び・・」の巻

1980年2月22日
(=∧=)翌朝・・
『結局O氏には申し訳ないがあの家は断った。それからMさんのところにあいさつに行ったところ、Mさんが一緒にやって来てペンショーネのじいちゃんに貸家情報を色々尋ねてくれた。今はないけれど月が変われば出るかもしれないので、必ず帰ってくるのなら探しておいてあげようということだった。そこで大きい荷物はMさんちに預け、月末までフィレンツェに居て電話でまずは問い合わせることにした。』

1980年2月23日
まる1週間滞在したペルージャにバイバイしたエカキ一家は列車でフィレンツェに戻る。
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『フィレンツェはあいかわらずで何か騒々しくほこりっぽい。今回は3軒目でなんとかシャワーも使えて18000リラ(3人用部屋5400円)のましな宿に入れた。夕食は前回美味しかったピッツエリアへ行く。その生地が美味しく端の焦げたことろがモチのようでたまらない。ところが今回は階下で食べたので冷めていておいしさ半減。釜のそば(釜は1階)で食べるにかぎる。』

(=∧=)フィレンツェといえば「Bistecca alla Fiorentina( ビステッカ・アラ・フィオレンティーナ)」。Tボーンステーキだ。でも今じゃBSEの問題あるんでTボーンはダメだろうなあ・・

翌日そのTボーンステーキを食べに出かけたエカキ一家。お店は「BUCA LAPI」なんとリストランテだった。ちょっとよくは覚えていなのだが何かのお祝いだったんだと思う。給仕のおじさんが炭火で焼いた野性味あふれるステーキを大きな皿に入れサーヴ。客の目の前で切り分けてくれるのだった。注文のときに「ジャポネ?」とか聞かれたと思う。だから他のテーブル席のビステッカよりミディアムウエルダン位に火が通っていたと思う。塩加減良く、フランスで食べたステックとは一味もふた味も違った・・ことを28年経ったいまでもよく覚えてる。

この給仕のおじさん、おヒゲをたくわえ、くるくるよく動き、見ていて楽しかった。2つのデザートを3人で分けて食べていたら、イタリア語で「バンビーノ」だの「チョコラータ」だの言うのだが、分からないとジェスチャーしたら、まいいさ、とばかりにチョコレートケーキを運んできた。あれ、頼んでないぞ、という顔をしたんだろうと思う。おじさんはウィンクしてあごをぐぃっと息子のほうに向けた・・もち、ちび、喜ぶの図・・

住むところは全然見つからないが、なんとなく良いこともあるイタリアの日々であった。
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by nabetsuma | 2008-10-02 16:44 | 旅ツマ4イタリア編

ヴィンテージ・ナベを国内外から収集し「鍋道」を極めんがため精進する不敵な奥様。


by nabetsuma
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